以下の説明を読み、すんなりと理解していただけるのは、私の講義に出席された方と最新刊『基礎から最高峰を目指す四柱推命の本』の読者だけでしょうが、あえて、現状ではまだ少部数しか世の中に流通していませんので、読者の対象が少ないことを承知の上で、こうした形で情報を発信することにしました。
徐樂吾氏の生年は1886年。清朝末期に支那に生まれ、20代には政治家を志していたようなのですが、その後、四柱推命の研究に専念し、近年において、もっとも多くの著作を残した研究者となりました。詳しい経緯は、基礎から最高峰を目指す『四柱推命の本』にありますので、参照してください。
なお、清朝は漢族ではなく満州人による国家ですが、徐樂吾氏は満州人なのか漢族なのかは不明です。
次は、徐樂吾氏の著作の一部です。
『命理入門』
『子平粹言』
『古今名人命鑑』
『造化元鑰(Zoukagenyaku)評註』
『滴天髓徴義』
『原本子平眞詮評註』
『滴天髓補註』
『窮通寶鑑』
『命理一得』
徐樂吾氏の著作の多さは、1000年に及ぶと思われる四柱推命の歴史において群を抜いています。そのため日本には徐樂吾氏の影響を受けている人が多くいます。扶抑用神、専旺用神、病薬用神、調候用神、通関用神は、徐樂吾氏の創案ですから、これらの用語を使用している人は、徐樂吾氏の影響下にあると言えます。
また、『滴天髓』、『造化元鑰』、『子平眞詮』を、「必読の三書」と言い始めたのは徐樂吾氏です。『滴天髓』以外の二書は、徐樂吾氏が発掘した命書ですから、思い入れがあったのでしょう。
徐樂吾氏のあとに、呉俊民、尤達人(Yu-tatujin)、韋千里(I-senri)など、推命の書を残した人物がいますが、日本にはその影響下にある専門家も多くいます。いずれも20世紀中頃くらいまでに活躍した人たちですので、これらの命家の影響を受けている日本人は、二代目、三代目になっているようです。
そのためか、ネットを見ていますと、自身の考えがどの研究者の影響下にあるのかまったく知らないまま四柱推命を論じている人を多く見かけます。あまり褒められたことではないと考えます。
干支暦は、60の干支が、年、月、日、時のそれぞれにおいて順に巡るだけと述べましたが、年月と日時は独立しています。年と月の干支は、相互に関連しつつ干支が順に巡り、同様に日と時の干支も、相互に関連しつつ干支が順に巡ります。
「相互に関連」とは、じつに単純なことです。干支は60通りしかありませんので、60年経過すれば元に戻るしかありません。1年は12カ月ですから、月の干支も60カ月、つまり5年経ちますと、元に戻ります。
この相互の関連が、年月の干支と日時の干支において別々に動いているのです。ですから、年月の干支と日時の干支は独立していると言えるのです。
さて、徐樂吾氏の著作に、命理発展に寄与した、見るべき内容があったかどうかです。
結論から言いますと何もありません。徐樂吾氏の唯一の業績をあげるなら、四柱推命を伝承し、世の中に広めたことくらいです。
例えば、既述の扶抑用神、専旺用神、病薬用神、調候用神、通関用神の視点ですが、明らかな問題を抱えています。
「専旺用神」は、特別格局(外格とも言う)における視点で、他とは性質が異なるため除外しますが、残りの4つの視点を四柱八字に当てはめますと、吉凶の結論が一致しないことのほうが多いのです。
残りの4つの視点を総合して、一つの、矛盾のない結論を導き出すことができるような仕組みが用意されていません。何が吉で何が凶なのか不明となり、支離滅裂になります。
例えば、扶抑用神の視点から、丙火には五行の調和を乱す作用があるため、凶であるという結論になっても、調候用神の視点で、丙火が吉となることがあるのです。これを支離滅裂を言わずにどう言うのでしょうか。
徐樂吾氏自身の四柱八字はその著作に公表されていますが、論理的な思考に長けた、頭のいい人物であったであろうと推定されます。
ですから、徐樂吾氏自身の著作における、内容の矛盾や問題に気がついていたであろうと思います。1948年、享年62歳で首吊り自殺をされたのは、命理研究の行き詰まりも一つの原因ではなかったかと推察しますが、1949年に中華人民共和国が建国した史実を鑑みますと、共産国家となり、四柱推命をはじめとする運命学が全面的に禁止され、焚書され始めたことが理由ではないかとも考えられます。
※上記の説明には、本書独自の蔵干の考え方と、格局に代わる」「旺の逆転」という視点が含まれています。詳しくは、基礎から最高峰を目指す『四柱推命の本』を参照してください。
2014・5・25
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